外に出ると、もう夜は深くて、歩き出すと、どこからともなく土の匂い。雨が近くにいるらしい。
3時間にも及ぶ大作の途中でお腹がすかないように、チョコレートをひとつバックのなかに忍ばせておいたことをすっかり忘れていた。そのことにはっと気づくと、急にお腹がすいてきて、封を開けてかけらを口に含んだ。口の中の甘さと、映画の世界の恍惚が、ぼんやりと繋がって、電車の音が心地よく聞こえる。
フレデリック・ワイズマンの作品「BALLET」はアメリカン・バレー・シアターを追ったドキュメンタリー。ダンサーの造形芸術に近い身体の成り立ちとその動きの理由は、本拠地ニューヨークでの稽古風景からじわじわと伝わってくる。
対象に近づきすぎず、視線を揺らしすぎず、ワイズマンの目は常に事実をまっすぐに凝視する。「軽く!もっと軽く!」というアドバイスの傍らで、稽古場に鳴り響く床を叩く細かな足音。暖かい空気のような跳躍に続く、ドシン、という着地の音。舞台から離れた現実世界では、身体を造形のように作り上げることに対する負荷がありありと感じられて、人間の身体を素材とした芸術の真髄に近づけば近づくほど緊張感が走る。上下から、左右から、見えない糸に手繰り寄せられては、逆らうことで生まれる数学的な均衡。何度も繰り返す稽古風景を見ながらも、うっとりとするような身体の美しさを目の当たりにすると、彼らの日々のワークアウトに感謝したくなる。
動きの背後に響く、簡潔な言葉の数々。高揚した調子で口ずさまれる旋律は、一線を離れたかつての一流ダンサーのもの。彼らが現役ダンサーへ注ぐ熱情へ視線は向けられる。
80歳にはなるだろうと思われる女性の先生に対するインタビュー。
「(ダンサーと)一緒に動きたいと思いません?」
ワイズマンからの質問に車椅子のミセスは、身を乗り出して机を叩きながら、天を仰いで言った。
「それはもう!もちろん、思うわ!ダンサーと一緒になって、こうやって、ああやって、表現したいわ。誰かこの私をここから引き釣り上げて、持ち上げてっていつも思っているわよ。」
ブルーの瞳が生き生きと弾んでいる、ロシア人の先生。訛りのあるつたない英語で、トップダンサーに細やかな表現を指示する。ダンサーの正面で静かに椅子に座って、指示をしているだけでは伝えきれない感情の数々を、「This」とか「That」とか、ほんの二つ三つの単語を叫びながらくるくるとスタジオを駆け回る。
「うれしいときはどんなとき、どまどうときはどんなとき?ハリウッドの映画じゃないの。動きではなくって、表情だけで表現するの。とってもシンプルよ。」
一方、あらゆる音の鳴り響く稽古場とはうって変わった事務机の上でも、突風のような情熱は沸き起こっている。電話を片手に、稲妻のように怒り狂う芸術監督。その理由は、メトロポリタン・オペラでのアメリカン・バレエ・シアターの公演の直後にキエフ・バレエ団の公演、しかも同じ演目が続くこと。その主催者側のプログラミングの思慮のなさについての大抗議。来客がドアを叩く音もそっちのけで、バレエ団の名誉を守る。観客とダンサー、そして作品との間の橋渡しは、彼らの綿密な計画によってなされていることは、言うまでもない。
たった数ヶ月のバレエ団を取り巻く日々。それはコペンハーゲンでの公演、ロミオとジュリエットの一幕で締めくくられる。はんなりと宙を舞うしなやかな手足に、スカートのドレープがそっと追いつく。風のように離れては、惹かれあう男女の距離が縮まるたびに、歓喜のため息をつく。1秒が無限秒にも感じられるとき。きっとみな、この一瞬のために、時間をささげている。
舞台が一瞬暗くなって、次幕を心躍らせながら待っていると、エンドロールが始まった。
いつの間にやら外は土砂降り。跳ね返る雨音の音を聞きながら、至福の夢の余韻と泳いだ。
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